【近藤勇】07.壬生浪士組

 浪士組の取締役の一人、佐々木只三郎は、会津藩士、佐々木源八の三男で、親戚の旗本、佐々木弥太夫の養子となったため、実兄の手代木勝任は、会津藩士であった。

 会津藩は、当時、京都守護職として、藩主の松平容保の下、京の治安維持を担っていた。

 浪士組の分裂後、根岸友山、芹沢鴨、近藤勇を中心とする、京都残留組を、松平容保の傘下に組み込み、京都守護職の会津藩預かりとなるよう、取り計らったのは、手代木勝任、佐々木只三郎の兄弟であったと言われる。

 佐々木只三郎は、後に見廻組を結成する。

 1863年3月10日、松平容保は、二条城で、幕府の老中から、京の治安維持のために、浪士を差配することを命じられる。

 同日、根岸、芹沢、近藤達は、会津藩に対し、嘆願書を提出した。

 3月12日、嘆願書は受理され、会津藩預かりとなり、将軍在京中の京の警護を目的とする、壬生浪士組が結成される。

 この時点の隊員は、二十四名であった。

 壬生浪士組は、結成時、三派で構成されていた。

 近藤勇を中心とする、試衛館の八名と、斎藤一、阿比類鋭三郎。斉藤一は、江戸の試衛館道場に、出入りしていたと言われるが、江戸での浪士組の結成には参加しておらず、近藤達とは、別に上洛していた。

 阿比類は、北辰一刀流を修め、殿内、家里の一派であったが、壬生浪士組の結成後は、近藤と行動を共にした。

 ただし、一カ月以内に死去しており、死因は、殺害とも病死とも言われる。

 十名の近藤一派に対し、芹沢一派は、八名。新見錦、野口健司は、芹沢と同じ、水戸藩の出身であった。

 その他、鵜殿に、京都残留組の取り纏めを依頼された、旧清河派の殿内と家里、根岸友山の一派が、八名であったが、彼等は、「派」と呼べるほどの纏まりはなく、「その他」と言える。

 殿内と家里は、根岸と旧知だったと言われる。

 壬生浪士組は、浪士組として、上洛した際に宿とした、八木邸を、そのまま、屯所とし、壬生を拠点としたために、「壬生」浪士組と呼ばれる。

 結成当初の彼等は、身なりが貧しく、そのため、一部の京の人達から、「みぼろ」(壬生狼)と揶揄されていた。

 壬生浪士組は、同床異夢の集団であったため、結成当初から、主導権争いが勃発する。

 剣客集団であるためか、内部抗争は、血生臭い、粛清に発展した。

 最初の犠牲者は、京都残留組の取り纏めを鵜殿から依頼されていた、殿内であった。

 殿内は、旧清河派のためか、近藤に憎まれていたと言われ、京の四条大橋において、近藤と沖田に殺害された。

 鵜殿の暗殺に恐れたのか、根岸は、その直後、伊勢参りに行くとの口実で、清水吾一、遠藤丈庵、鈴木長蔵と共に江戸へ戻った。

 彼等は、江戸において、新微組に参加するが、根岸、遠藤、鈴木は、短期間で脱退している。

 清水のみが、新微組に残った。

 殿内と共に、残留組の取り纏めの家里は、大坂において、芹沢により、切腹させられる。

 家里の切腹後、芹沢派、近藤派ではない、神代仁之助は、脱走し、江戸へ戻り、新微組に参加した。

 水戸藩の出身であるが、芹沢派には属さなかった、粕谷新五郎は、脱退後に、郷里に戻ると、1864年(元治元年)、天狗党の乱に参加している。

 3月12日の結成から、わずか、一カ月半余りで、八名が死去及び、脱退したため、壬生浪士組は、芹沢と近藤の二派閥体制になるが、両雄並び立たず、両者の対決は、時間の問題であった。




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