長宗我部戦記Ⅷ  元親の死

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 秀吉の四国遠征の結果元親は土佐一国に押し込められます。阿波は論功行賞により蜂須賀家政(正勝の子)が獲得しました。讃岐は十河存保領3万石を除き仙谷秀久が得ます。一躍10万石の大名になった秀久は喜び勇んで入国しました。この秀久という人物、武勇はあるものの性格が軽忽でとても大名として領内を治める器ではありませんでした。伊予は小早川隆景が貰います。

 1586年正月、元親は年賀のために大坂城に上りました。秀吉は大いに持て成し感激した元親は秀吉に忠誠を誓いました。この秀吉の外様大名に対する接待は多くの田舎大名の心を捉えます。一生を謀略に捧げた奥州の津軽為信でさえ秀吉に心酔した一人で、関が原で家康に付いた後も秘かに秀吉の木像を隠し拝んでいたと言われます。石田三成の縁者すら匿いました。表裏比興の者と言われた信濃の真田昌幸もまた秀吉の人たらしにはまった一人でした。

 同年秀吉が京都方広寺大仏殿を建設したとき、元親は自ら率先して土佐の良材を選び秀吉に贈ります。秀吉は大変喜んだそうです。1586年7月、いよいよ秀吉は九州攻めを開始しました。元親も土佐勢を率い参加します。長宗我部軍は讃岐の仙谷秀久を軍監とする四国勢に組み入れられました。秀久は舞い上がっていたと言われます。軍中には元親と犬猿の仲の十河存保もいました。

 当時九州は薩摩島津義久が席巻中で、大友宗麟は豊後一国に押し込められます。筑前では大友家臣立花宗茂の立花城だけが孤塁を守っていました。宗麟はすでに家督を息子義統に譲っていたので仙谷らは義統と善後策を協議します。四国勢はこの時6千。しばらく待っていれば豊臣の大軍が到着するはずでした。義統は最初からやる気がなく、四国勢が矢面に立たされます。軍議の席で元親は「ここは一時撤退し本隊の到着を待つが得策」と主張します。しかし血気にはやる秀久は先陣で大功を上げる野心から「積極的に打って出るべし」と反対しました。

 十河存保も秀久の意見に同意したため戦闘と決します。じつは存保もこの戦いの結果は見えており秘かに嫡男千松丸を脱出させています。存保が秀久の意見に賛同したのは、宿敵長宗我部元親と共倒れになる考えだからでした。そこまで恨みが深かったのでしょう。元親はこの戦に嫡男信親を同行させていました。信親は、温厚でありながら明朗活発。知勇兼備の名将で元親が最も期待していた息子でした。当初元親は出陣に際し信親を留守に残しておこうとします。すると信親は自ら参陣を願い、元親も押し切られたのです。

 義久の弟家久を大将とする島津勢1万3千が迫っていました。1587年1月、豊後国戸次川を挟んで両軍は対峙します。ここでも元親や存保は島津勢の渡河を待って攻撃を開始するよう秀久に進言しました。しかし功を焦る秀久はこれを無視、劣勢の側が敵前渡河するという兵法上ありえない愚かな選択をします。島津勢はこれを誘い込み、敵勢が伸び切った瞬間を待って逆襲に転じます。島津勢得意の『釣り野伏せ』戦法でした。

 ただでさえ劣勢な四国勢がこれを支え切れるはずがありません。四分五裂に分断され次々と討たれました。乱戦の中、信親は敵中に孤立します。そこへ十河存保が近づきました。
「信親殿、この戦は負けじゃ。ここは潔く突撃し武士らしい最期を遂げようではないか!」
実は信親は、父元親を探して彷徨っていたのです。しかし、存保の申し出を断れば臆病者の誹りを受けます。若い信親にとってこの屈辱は耐え難いものでした。信親は手勢700とともに敵中に突撃し壮烈な戦死を遂げます。享年22歳。存保も同様でした。


 満身創痍になりながらかろうじて死地を脱した元親は、家臣たちに息子信親の安否を尋ねます。そして信親の壮烈な戦死を知りました。衝撃を受ける元親。数多くの家臣も討たれ傷心の元親は、島津軍と交渉し信親の遺体を貰い受けると土佐に帰国します。九州征伐自体は、秀吉軍の圧勝で島津氏は薩摩・大隅の安堵で許されました。

 ただ戸次川敗戦の罪は罰せられます。血気にはやり四国勢を壊滅させた仙谷秀久は所領没収の上高野山に追放。当主のいなくなった十河家も改易されます。元親は、慎重策を述べたこと、嫡子信親はじめ多くの犠牲を出したことでお咎めなし。しかし元親は、期待していた信親の死を受け生きる気力を無くしました。政治に対する興味も失い、酒浸りの日々になります。

 1588年冬、元親はそれまでの居城岡豊城を捨て大高坂(高知)城に移りました。そこも長くは居ず浦戸城に移りますが、再び大高坂城に戻るなど迷走しました。その後、1590年の小田原征伐では水軍を出して小田原城包囲に参加、朝鮮の役にも出陣します。

 長宗我部軍の軍役は3千。太閤検地における土佐の石高が9万8千石。当時の石高はこれくらいが実数だったのでしょう。信親死後の元親は惰性で生きていたような気がします。その証拠に当初後継者すら決めていませんでした。正室斎藤氏から生まれた男子は香川親和、津野親忠、盛親の三人がいて、それぞれに家臣が付き家督争いを始めます。元親は信親を溺愛していたため、彼の娘を娶わせるのに年齢の近い盛親を選びました。妄執に近いものがあります。ただ盛親は、性格粗暴で思慮浅く土佐一国を保てる人物ではありませんでした。多くの家臣が反対する中、元親は強引に盛親を後継者と決めます。

 元親は反対する家臣を次々と粛清しました。1598年太閤秀吉死去。大名たちは次の天下人として家康に接近し始めます。しかし元親は京都伏見屋敷にあってまったくそのような動きをせず、荒んだ生活が祟って病床につきました。1599年5月10日死去、享年61歳。四国を一時は平定した英雄の寂しい死でした。




 家督を継いだ盛親はどのような生涯を辿るのでしょうか?次回最終回長宗我部氏滅亡を描きます。