世界に誇る日本人の精神力。戦後ほとんど語られなくなった英雄・佐久間勉艇長と伊号第33潜水艦


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1922年、潜水艦の権威の日本人が英国軍港を訪ねた時、英国軍港司令官はパンフレットを見せてこう言った。

「これは英国潜水艦乗員の精神教育のテキストです」
 
それは1910415日、広島湾で第6号潜水艇の訓練中に部下13名と殉職した佐久間勉艇長の遺書であった。
 
諸外国の潜水艦の事故では、乗員は先を争そって脱出しようと出入口付近で死んでいる。しかし佐久間勉艇長の場合はそれぞれが持ち場で殉職していた。
 
これが知られると世界から「日本人の道徳心、精神力は勇敢であり、今も昔もこのような例がない」賞賛された。
 
しかし佐久間艇長のすごさはここからだ。
 
沈没と同時に電灯が切れ、艦内に排気ガスが充満してくる中、佐久間艇長は筆跡は乱れながらも、整った文章で沈没に至る過程を記述していた。
 
小官の不注意により、陛下の艇を沈め、部下を殺す。誠に申し訳なし。
されど艇員一同死に至るまで皆よくその職を守り、沈着に事を諸せり。
 
部下や上官への陳謝を記し、最後に畏れながらも陛下に「部下の遺族が窮することないように」と書き、「呼吸非常に苦しい」と書かれて終わっていた。
 
戦前は修身教科書で佐久間勉艇長の話を「沈勇」として教えていた。佐久間勉艇長のことは戦前生まれの日本人で知らない人はいない。しかし戦後は知る人がほとんどいない消された英雄である。(下画像)

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その後、大東亜戦争の最中の1942916日、伊号第33潜水艦がトラック島泊地で故障して沈んだ。しかし翌年、浮揚作業が行われ修理後に戦線に復活した。
 
そして1944613日、伊予灘付近で訓練中に再び事故を起こして沈没した。2名が救助されたが102名が殉職した。潜水艦は戦局が悪化で沈没したまま放置された。
 
終戦後8年経った1953年、この潜水艦の浮揚作業が行われた。この時、艦首の「魚雷発射管室」と「前部兵員室」は浸水していなかった。
 
その中に入ると13名の兵員がまるで生きているように発見された。12名はベッドに寝ているように身を横たえ、1名は発射管室で縊死していた。
 
遺体が原形を保っていたのは酸素を吸い尽くしたから腐敗菌が活動停止し、また水深60メートルの深海で気温が低いためであった。
 
12名は死への恐怖による錯乱状態が全く見られずに全員が自分のベッドで死を迎えていた。
 
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電動機室からは2名の遺書が発見された。
 
浅学韮才の身にして万全の処置を取りえず数多の部下を殺す。申し訳なし。
潜水艦界のこの上なき発展を祈る。大東亜戦争勝ち抜け。
吾が遺言はこれのみ海軍中尉大久保太郎
 
もう一人は浅野光一上機曹で、沈没原因を書いた後、こう書いてあった。
 
訓練にて死するは誠に残念なり。
しかし今はあらゆる努力をなしたれども刻々浸水するのみ。
最後までがんばる。帝國海軍の発展を祈る。我死するとも悔ゆることなし。
 
沈没推定時刻は840分、浅野の遺書には「気が遠くなる。午後1320分」とあり沈没から5時間が経っていた。
 
その後、もう一つの遺書が発見された。そこにはこの区画にいた31名の名前が明記されていて、こう書かれていた。
 
16451645分)、大久保分隊士号令の下に皇居遥拝、君が代、万歳三唱。
17301730分)、大久保中尉以下31名元気旺盛、全部遮水に従事せり。
180018時)、総員元気なり。総てを尽くし今はただ時機の至るを待つのみ。誰一人として淋しき顔するものなく、お互いに最後を語り続ける。
 
沈没から10時間経ってもこの沈着さと気力であった。
白人とは違い、死を目前にしても取り乱すことなく冷静であった日本人の精神力はどこからくるのであろうか。
 
日本人が見るべき”視点”はこういうところにある。決して「日本軍は悪かった」ではない。

東郷神社に「潜水艦勇士に捧ぐ」記念碑がある。そこにはこう書かれている。
「民族の急を救うべく戦った犠牲の精神は永久に其処に活きている」と。


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