軍事司法制度(23)

 武家の時代には、武家それぞれの軍法が存した。
 1868年(明治元年)正月明治維新政府は、軍防局内に裁判所を置いたが、同年9月25日に廃した。
 同年2月20日東征大総督熾仁親王は、東征海陸軍に対して達書をもって非違を戒めた。
 同年5月3日陸軍局法度が定められた。
 1869年(明治2年)4月29日軍律が定められ、同年8月兵部省内に糾問司が設けられた。これが司法統括機関の嚆矢である。
 1871年(明治4年)7月海陸軍糾問司となった。同年8月陸海軍刑律が公布された。
 1872年(明治5年)1月兵部省が陸・海軍省に分かれ、2月18日陸海軍刑律を制定し、4月9日陸軍裁判所を設け、10月海軍条例制定により省内に裁判所を置いた。同年11月14日陸軍省は、懲罰令を制定した。
 軍律に照らし,軍人の犯罪を糾問処断するのは司法権によるものであるが、軍の規律を厳重にし、戦地における機宜に適う目的をもって軍法会議なる特別裁判所を設置した。同年3月7日の陸軍省達において初めて軍法会議という用語が現れた。この語は、フランス語のConseil de guerreの訳語であった。
 1873年(明治6年)3月陸軍省条例において第1局第4課を軍法会議の管轄課とし、1877年(明治10年)11月制定の陸軍職制及び章程によって司法事務を明らかにした。
 1876年(明治9年)4月13日海軍は、裁判会議規則を制定し、同年8月制定の海軍職制及章程によって司法事務を明らかにした。陸海軍の司法制度の創設は、フランスを模範としていた。
 1881年(明治14年)12月29日陸海軍刑律は、陸軍刑法及び海軍刑法とに分離され、根本的に改正された。分離されたのは、陸軍と海軍とでは、勤務状態、戦闘の形態等において差異があったからである。しかし、大体の法文は同じである。陸軍・海軍刑法は、フランス軍事裁判法を踏襲したものであって、罪刑法定主義を認め、類推解釈を禁止していた。