ライチの甘い香りを愛した美女の宮殿 ・ 長安

みなさんこんにちは。

遅ればせながら、平成29年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

さて、これまでヨーロッパや中東の宮殿にまつわる話ばかり書いてきたので、今回から趣を変えてアジアの方にも目を向けてきたいと思います。まずは中国歴代王朝の一つ、唐王朝の都である「長安」の宮殿についてのお話です。

この唐王朝とは、4千年といわれる中国の長い歴史の中で勃興した多くの王朝の順番で言えば第10王朝にあたり(あくまで時代ごとに「順番」で数えた場合です。有名な三国志の「魏・呉・蜀」など同じ時期に並立した王朝は一括りにして数えています。)その存続期間は西暦618年から907年までの289年間という長期に亘るものです。

自分が今回この唐王朝について書こうと思い立った理由は大きく二つあります。一つはなんといってもこの唐王朝が、わが日本の国家形成と、わが国固有の文化の発展に最も大きな影響を与えた最初の外国である事、そしてもう一つは、この唐王朝の時代が現代の中国において、彼らの間で中国の歴史上最も「良かった時代」と多くの人々が認識しているという点に興味を抱いた事です。

それでは、この唐王朝がどの様にして成立し、中国本土はおろか東アジアに君臨する大帝国として拡大発展していったのか、まずはそのあたりから始めて行きたいと思います。

時は西暦618年、それまで中国を支配していた隋(ずい)王朝は終焉を迎えようとしていました。この隋とは、唐の前の王朝ですが、二代皇帝煬帝(「ようだい」 569~618 本来は「ようてい」のはずですが、日本ではなぜか古くから「ようだい」と呼ばれています。)の失政と圧政により各地で反乱が勃発、ついに煬帝本人が暗殺されてしまったからです。

この混乱に乗じて兵を挙げたのが煬帝の従兄弟にあたる李淵(り えん)将軍です。彼は素早く軍を動かして隋の都長安を占領すると、煬帝の孫でまだ13歳の少年だった恭帝(きょうてい)を隋の3代皇帝として擁立、さらにその恭帝から禅譲(「ぜんじょう」と読みます。これは血縁ではない他者に「位を譲る」という事です。)されるという形で自ら皇帝に即位し、ここにおよそ300年続く強大な唐王朝が誕生するのです。


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上が唐王朝の創始者である李淵です。(566~635)彼は即位して大唐帝国初代皇帝「高祖」となり、都を隋から引き続き長安に定めました。

中国を統一した唐王朝はやがて更なる勢力拡大を図り、強大な軍事力で周辺諸国へ侵略の手を伸ばします。


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上が大唐帝国の最大領域です。北はモンゴルから南はベトナム北部、そして西は中央アジアの内陸国家群を従え、イスラム最初の王朝であるウマイヤ朝イスラム帝国と国境を接し、そして東は朝鮮半島南部にまでその勢力が及んでいます。この唐の進撃を阻む目的で、まだ「倭国」と呼ばれていた当時のわが国が、朝鮮半島南部の友邦国百済(くだら)とともに唐・新羅の連合軍と戦ったのが、白村江(はくそんこう)の戦い(663年)と呼ばれるものです。(これはわが国最初の外征戦争だったわけですが、唐軍13万、新羅軍5万の連合軍に対して、わが倭軍は4万2千、百済の残党軍5千を合わせても4万7千で、4倍近い大軍に無謀な戦いを仕掛け、戦死1万以上という見るも無残な大敗を喫してしまいます。)

この敗北により、当時の日本は外交政策を転換し、唐の皇帝に対して貢物を捧げる外交使節団を派遣する様になります。みなさんもご存知の「遣唐使」ですね。

さて、強大な軍事力で周辺諸国をことごとく撃ち従えていった大唐帝国は、建国から50年を過ぎた西暦670年代にその領土は最大規模に膨れ上がります。(上の図を参照。)そして8世紀に入り、帝国の頂点に君臨したのが第9代皇帝玄宗(げんそう)です。


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上が大唐帝国第9代皇帝玄宗です。(685~762)彼は伯父に当たる7代皇帝中宗(ちゅうそう)を毒殺し、自ら女帝となって唐の全権を握ろうと目論むその皇后に対し、先手を打ってクーデターを起こし、皇后一派を粛清して父の睿宗 (えいそう)を8代皇帝に擁立、さらに712年に父から譲位されて27歳で9代皇帝となったというなかなかしたたかな人物です。(笑)

この玄宗皇帝の統治した8世紀前半は、唐王朝がその繁栄の絶頂期を迎えた時代でした。この頃の玄宗皇帝は若かったゆえか、より良い君主たらんと国政に情熱を傾け、それを支える官僚機構の充実を図ります。帝国の都長安には国内外から多くの人や物が集まり、その人口は彼の時代に100万を超え、長安は世界最大の都市にまで発展しました。


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上が唐の都長安の想像図と市域の範囲です。二枚目の画像をご覧頂くと、上の方にもう一つの「長安」がありますが、この街はそもそも漢の時代(紀元前206~紀元205)に造られ、その後の歴代王朝が都を置いたもので、それを表したものです。隋、唐の時代に少し南に移してさらに大規模に市街地の拡大が図られ、その大きさは南北8.6キロ、東西9.7キロに及ぶ巨大都市に変貌しました。(長安の郊外に「秦阿房宮」とありますね。これはあの始皇帝が築いた有名な阿房宮の跡地です。意外な接点があるんですね。驚)

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上はかつての長安の宮殿と都を極めて精巧な模型で復元した中国のテーマパークの様子です。

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上は人々の活気にあふれる長安の街の様子を中国の画家の方が描いた絵です。(個人的で恐縮ですが、自分はこちらの方が好きですね。想像するだけで楽しくなります。笑)唐人だけでなく、シルクロードを通じてはるばるやって来た中央アジアの商人たちが、苦労して運んで来た様々な珍しい貴重な異国の品々を唐の人々に売りさばいています。街には異国の言葉が飛び交い、たくさんの物にあふれ、東洋と西洋が混然一体となって交じり合う国際都市長安の様子が生き生きと描かれています。この唐の時代、かつての中国はまぎれもなく世界に冠たる超大国であり、わが国はもちろん周辺国が恐れ敬う高度な先進文明国でした。(今は目も当てられない野蛮国に成り下がりましたが・・・呆)

しかし、以前にお話したローマ帝国のハドリアヌス皇帝の例を挙げるまでもなく、歴史を見れば国家の最盛期というものは衰退の始まりでもあります。それはこの大唐帝国においても同じでした。そしてこの唐王朝の場合、発端はその頂点に君臨していた人物、すなわち当時の皇帝玄宗自身が招いてしまうのです。

先に述べた様に、玄宗皇帝は青年時代の若い頃は熱心に国政の充実に努め、特に官僚機構を整備して中央から地方までつつがなく命令や指示が伝達実行される態勢を整えました。その結果、唐は国内外で大きな争いもなくなり、経済、文化が大いに発展して繁栄の絶頂を謳歌するのですが、40代の中年期に達すると、皇帝は次第に国政に関心を無くしてしまう様になります。

なぜ玄宗皇帝は政治に関心を無くしてしまったのでしょうか? 実はこれは彼自身が整備した官僚機構がうまく機能した事による皮肉な結果でした。これまで皇帝が取り決めていた政治の細かい事柄も専門部署の有能な官僚たちが行い、皇帝自身が自らトップダウンで事を決済する件が少なくなったため、つまり簡単に言えば、全て官僚たちがやってくれるので、皇帝は彼らの差し出す書類(もちろんすでに決定事項で皇帝が許可すると分かっているものばかりです。皇帝が許可しないと分かっている様なものをわざわざ差し出すはずがありません。笑)に判を押せば済む様になったからです。

もはや唐王朝の体制は磐石、国内外はさしたる争いもなく平和が続き、人民も大いにその恩恵を享受していました。暇を持て余した玄宗皇帝はやがて「禁断の世界」に足繁く通う様になります。その禁断の世界とは、後宮(こうきゅう)すなわち美女たちの園「ハレム」です。

歴史上の人物の多くがそうである様に、この玄宗皇帝も大変な「女好き」でした。記録にあるだけで生涯に30人の美女たちを「皇妃」とし、それらの皇妃たちに産ませた子は、記録ではなんと23男29女合わせて52人という大変な子だくさんだったそうです。(ただし、これは玄宗皇帝だけではありません。前段で述べた彼の祖先である唐王朝の創始者高祖以来、唐の歴代皇帝は多くの皇妃との間に数十人の子を成す多産一族でした。)

その多くの皇妃たちの中で、彼が最も寵愛したのが楊貴妃(ようきひ)です。


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上は楊貴妃(719~756)と戯れる玄宗皇帝の姿です。この楊貴妃は本名を楊玉環(よう ぎょくかん 「貴妃」は皇妃としての尊称です。)といい、地方官僚の娘でしたが、735年に16歳で玄宗皇帝の第18皇子の妃として唐の宮廷に入ります。しかし、その美しさに一目惚れした玄宗皇帝は息子に他の美女を与えて離婚させ、自らの皇妃にしてしまうのです。この時彼は50歳で、二人の間には親子ほども年の差がありました。

彼女の魅力は美しさや豊満な肉体だけでなく、立派な教養と品格を備え、さらには音楽と舞踊にも多大な才能を持ち合わせていました。皇帝はすっかり彼女の虜になり、彼女の元に入り浸るようになるのです。その寵愛振りは目に余るほどであったようで、楊貴妃の喜ぶ顔が見たいからと、およそ女性が欲しがるあらゆるものを何でも与え、片時もそばから離そうとはしませんでした。といっても、それは彼女の心をつかみたいという皇帝の一方的な熱愛から発したものであり、楊貴妃個人はとても謙虚な性格で、彼女自身が皇帝の寵愛を良い事に贅沢三昧にふけったりしたわけではありません。

しかし、そんな彼女にも一つだけ大の「お気に入りの品」がありました。それは当時中国の最南端でしか取れない貴重な果物であった「ライチ」です。

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上が楊貴妃の大好物だったライチの実です。日本でも、近年良く耳にするようになった果実の一種ですね。といっても、自分の知る限りでは、実をそのまま食べたりするという事はほとんど無く、主にその果汁が清涼飲料やガムなどに利用されているのではないかと思います。もともとこの果物は「レイシ」というのが正式名称で、それが19世紀に中国にやって来た英国人の手で、発音の聞き違いから「ライチ」として世界に広められ、今日では台湾、東南アジア、ベトナムなどの亜熱帯気候の地域で栽培され、日本でも沖縄などで栽培されているそうです。

玄宗皇帝は楊貴妃を喜ばせようともぎたてのライチを大量に集めさせ、早馬で長安に運ばせて楊貴妃の住む宮殿の一画をライチの実で一杯に満たしたそうです。この皇帝の楊貴妃の溺愛ぶりに、当時の唐の官僚の残した記録には、嘆くようにこう記されています。

「陛下は今日も楊貴妃と夜を共に過ごされ、起きて来られたのは昼近く、以前の宮廷は陛下のお出ましで朝の御前会議が開かれていたのに、今ではそれもなくなってしまった。かつて一心に国と民を思われ、政務に勤しんでおられた昔の陛下はどこに行ってしまわれたのか。」

こうした皇帝の堕落の隙を付いて、大唐帝国ではある二人の人物が急速に大きな力を持つようになります。一人は宰相として政治を取り仕切る楊国忠(よう こくちゅう)大臣、そしてもう一人は大唐帝国の西域方面総督であった安禄山(あん ろくざん)将軍です。


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上が大唐帝国宰相として唐の国政を握っていた楊国忠です。(?~756)彼はその名字の通り、楊貴妃の実家楊一族の出身で、彼が宰相に出世したのは楊貴妃のおかげだと長く語り継がれて来ましたが、実際にはそれだけでなく、彼自身が財政と経理に巧みな手腕を発揮し、それを買われて玄宗皇帝の元で昇進を重ねていった面が大きいようです。しかし、彼はそうした長所の反面で、自らの立身出世のためにライバルたちを陥れて次々と失脚させ、多くの人々から憎まれていました。

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そして上が大唐帝国の西部一帯を勢力下に置いていた安禄山将軍です。(705~757)彼はもともと唐人ではなく、ウイグル系で、当時西域(さいいき)と呼ばれていた中央アジア方面における総督として数々の武功を立て、肖像画にも描かれているように「猛将」の言葉が似合う武人でした。当然官僚のトップである宰相の楊国忠とは気が合いそうもありませんね。(笑)

唐節度使

上はこの頃の唐の勢力範囲です。都長安を中心とする唐本国と、安禄山が事実上の支配者である西域との間は、北は遊牧騎馬民族国家ウイグル(744~840)南はチベットを中心にヒマラヤ山脈を牙城とする山岳民族国家「吐蕃」(とばん 612~842)の二大勢力の台頭により、図の様に細長い回廊によってつながっていました。

この安禄山が総督を務めていた西域一帯は、シルクロードの東西交易の中心地であり、莫大な富が大唐帝国へともたらされていたわけですが、それに大きな危機感を抱いていたのが楊国忠宰相です。彼は玄宗皇帝が楊貴妃との情事にうつつを抜かしているのを良い事に国政を思いのままに動かし、政敵を次々に失脚させていった策士ですが、都を遠く離れた西域の任地にいる安禄山まではその影響力が及びませんでした。

もともと安禄山は、シルクロードの東西交易で頭角を現した人物で、玄宗皇帝からの信任も厚く、皇帝から「西域方面軍」として10万以上の大軍を任されていました。固有の武力を持たない楊国忠宰相にとっては最大の脅威です。そこで彼は、得意の策略をめぐらして安禄山に謀反の疑いをかけ、皇帝にそれを信じ込ませてしまうのです。楊宰相は安禄山が都に来た時を狙い、皇帝への謁見のために彼が宮殿で一人になった隙に衛兵部隊を使って彼を謀反の疑いで逮捕するつもりでいました。

一方、都長安において自分が「謀反人」とされている事をいち早く知った安禄山将軍の行動は素早いものでした。なんと彼は、生き残りのためにそのまま本当に「謀反人」となって唐王朝に対して反乱を起こすのです。時に西暦755年、これを「安禄山の乱」といいます。

すでに大唐帝国は、建国から130年以上の時が経過していました。その間戦いといえば、遠く離れた周辺国との国境における局地的な防衛戦がほとんどであり、国内でこの様な内乱が起こるのは始めての事でした。平和な時代が長く続いたため、唐の正規軍は実戦経験がなく、西域で遊牧騎馬民族との戦いに慣れていた安碌山の軍勢に全く歯が立ちませんでした。勢いに乗る安禄山軍は15万の大軍に膨れ上がり、怒涛の勢いで都長安に迫ります。

恐怖に駆られた玄宗皇帝は、長安を脱出して地方に宮廷を移す事になります。しかし、ここで彼に思わぬ試練が待ち受けます。今度は自らを護衛する護衛部隊が反乱を起こしたのです。彼らは皇帝を奉じ、楊国忠宰相を、

「皇帝陛下に要らざる諌言をして、この反乱を招いた張本人」

として捕え、殺害してしまいます。しかし、玄宗皇帝にとってもっとショックだったのは反乱軍の次の要求です。

「皇帝陛下をたぶらかすあの女も同罪だ。恐れながら陛下におかれては楊貴妃を我らに引き渡していただく。」

兵たちの要求に皇帝は凍りつきます。なぜなら彼らに楊貴妃を引き渡せば彼女がどうなるか、火を見るよりも明らかであったからです。彼はこの時、心から愛する者を奪い取られる恐怖と屈辱、そして何より例えようもない悲しみに、生まれて初めて「死の苦しみ」を味わう事になったのです。

一方、反乱軍が自分の処刑を要求している事を知った楊貴妃は、皇帝の苦しみを察し、こう言って皇帝を慰めました。

「わたくしは宮廷に上がりましてから、陛下に命を捧げた者でございます。どこの誰とも知れぬ兵たちに命を奪われるならば、どうか陛下の御手でわたくしの命を召し上げてくださいまし。」

状況は切迫していました。すでに都長安は安禄山率いる反乱軍によって占領され、彼は「燕」(えん)という新国家を樹立して自ら「皇帝」を名乗っていました。このままでは唐王朝は滅びてしまうかも知れません。玄宗皇帝が一旦地方で態勢を立て直し、都長安を奪い返すためには、その主力として皇帝の護衛軍がなんとしても必要なのです。そこで彼は側近に命じ、泣く泣く愛する楊貴妃を絞殺させました。(この時の皇帝の心情は想像を絶しますね。涙)

愛する楊貴妃の命を取らざるを得なかった玄宗皇帝はもはや抜け殻も同然でした。彼は失意の内に帝位を皇太子の粛宗(しゅくそう 711~762)に譲り、粛宗は唐王朝の第10代皇帝として安禄山との戦いに臨みます。

この安碌山の乱は755年から763年までおよそ8年もの間続きました。その間粛宗率いる新体制の唐王朝は、戦略の転換を図ります。粛宗皇帝は北のウイグル帝国と同盟し、強力なウイグルの騎馬戦力を味方に付けて長安を支配する安禄山を挟み撃ちにしたのです。唐王朝の巻き返しが始まりました。唐・ウイグル連合軍は総勢15万に達し、各地で安禄山の燕軍を撃破、長安に迫ります。

戦局が不利になると、反乱の首謀者の凋落は早いものです。敗戦続きで自暴自棄になった安禄山は次々に味方に見限られ、最後は皇太子の手によって暗殺されてしまいます。その後、安禄山が建てた燕王朝はほどなく崩壊し、唐王朝は長安を奪い返す事が出来たのです。

こうして再び中国の支配者として返り咲いた唐王朝ですが、この反乱によって唐の国力は著しく疲弊してしまいました。特に反乱鎮圧の兵力確保のため、各地の有力者に特権と帝国の重臣の地位を乱発した事から、帝国内は地方諸侯が割拠する状態となり、その後の唐王朝の皇帝たちは、さながらわが国の室町時代における足利将軍家の様に、これらの諸侯との妥協と対立を繰り返しつつ徐々に衰退していき、やがて反乱から150年を経た907年、ついに病み衰えて滅亡する事になります。


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上の一連の画像は、かつての長安の都があった現在の西安の街の様子です。(人口およそ850万 ただし、中国の統計は当てになりませんが・・・呆)画像にある城壁は、唐の時代より500年を経た西暦1300年代に中国を統一した明王朝(1368~1644)の時代に造られたものです。この長安は、唐が滅亡してからは一地方都市に成り下がり、二度とこの街に都が置かれる事はありませんでした。

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かつて栄華を誇った世界帝国唐王朝の宮殿は、その後の長い戦乱で失われ、今は宮殿の礎石のみが、訪れる観光客の足元に広がるばかりです。しかし、はるか遠い昔、ここにはライチの甘い香りを漂わせた絶世の美女が、美しい舞いや音楽を奏でていたのです。

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それから1200年余りの時が流れ、街の様子も時代によって大きく様変わりしていきました。それでも今も昔も変わらないのは、人々の間で語り継がれる絶世の美女の物語と、活気にあふれる人々の生きる姿です。

次回に続きます。