英語よりも活きた交渉力 伊藤博文の自己実現Ⅲ

英語よりも活きた交渉力 伊藤博文の自己実現Ⅲ

 

 さて、第三回では、伊藤博文が自分の個性を活かして幕末・明治をどのように動いたのかを自己実現の観点から見ていきたいと思います。時代は1863年~1878年ごろです。

 

1.尊王攘夷から倒幕へ

 松下村塾出身のメンバーは日本に迫りくる外国の勢力に武力で立ち向かう「尊王攘夷」を果たすために日々活動を行っていました。伊藤もイギリスに密航する前は攘夷を唱え、過激な活動に身を置くようになっていました。暗殺、放火などにもかかわっていました。

 しかし、イギリスから帰国した伊藤は尊王攘夷を唱えることをやめ、倒幕への道を高杉晋作らとともに進むことになります。伊藤は英語を活かして、通訳として、外国公使との交渉に参加。また、薩長同盟締結後は薩摩からの武器購入に携わっています。英語と交渉術が活かされていることがわかります。

 

2.傑物に囲まれた中での出世

 幕府滅亡後、伊藤が最初に任された仕事は兵庫県知事。当時神戸港が外国へ開港されたばかりだった土地にもかかわらず、起こった問題にうまく対処しました。結果、首都東京への勤務が認められ、中央官僚としての道を歩むことになります。幕末を乗り切った志士も大抵は中央官僚止まりです。薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩などの藩閥がひしめき合う中、省庁のトップに出世することは困難です。では伊藤はどんな風に出世していったのでしょうか。

 伊藤が名を上げたのは、世に言う征韓論政変です。簡単に言えば、海を隔てた隣国朝鮮に攻撃を加えるべきかで政府が真っ二つに割れた論争です。ここで慎重派であった伊藤慎重派の筆頭であった岩倉具視・大久保利通にはたらきかけ、開戦派の一掃を主張しました。開戦派の筆頭は西郷隆盛。薩摩閥の重鎮です。伊藤は、岩倉や大久保が西郷との対立にためらっているところをあえて唱えました。その結果、明治天皇へのはたらきかけもあり、開戦派の一掃に成功します。岩倉や大久保からは、伊藤は意志の強い人間に映ったことでしょう。

 

3.大久保体制の後継者

 征韓論政変の後、政府を仕切ったのは大久保利通です。内務卿として富国強兵政策を推し進めた大久保は二人の人物を重用します。一人は伊藤博文、もう一人は大隈重信です。大久保は伊藤の交渉術を頼りにしていました。伊藤は大久保のメッセンジャーかつ仲介者として、意見対立あるいは敵対する政治家との根回しに動きました。大久保の政治が独裁的だったというのが通説ではありますが、伊藤の交渉術がそれを補っていたのです。こうして、大久保は伊藤を一番の側近として重用したのでした。

 1878年に大久保は暗殺されます。それ以降日本の舵取りは伊藤博文にゆだねられるのです。

 

 伊藤は交渉術を最大の武器として出世を重ねました。しかしそれは言葉の巧みさだけではありません。父親ゆずりのタフさ、努力は実を結ぶという人生哲学を身に着けていたからこそ成りたつのです。